2010年6月26日土曜日

やっぱり、体験談がいちばん!(実家編)



昨日は久しぶりに栃木の実家で家族が集まり、さらに
ゲストを招いてお食事会。このゲストというのが、
父親方の祖父の妹さん夫婦。




この会食の事の発端は、両親とのなにげない会話から。


この春に高齢になる叔父が他界し、葬儀やら法事やらで
普段は栃木や東京に点在している親や兄弟がなにかと集まる
機会があった。親族集まれば、おのずと身内トーク。


そこで、うち(山口家)は一体、どこからきたのか?
という話になった。父親の父親、つまり私の祖父は、
55歳のときに脳溢血で急死した。父親はそのとき
26歳、独身真っ盛り。だから、母も私たちも祖父のこと
はときおり話に聞くだけで、顔も写真でみただけ。


このときも父に祖父の話を聞いていたのだが、一体、
祖父はどんな人生を送ってきたのか?と尋ねると、
祖父の兄弟で唯一生きている妹さんなら、自分が知らない
こともよく知ってるはず。だったら、彼女がまだ元気な
うちに、一度はなしを聞いてみよう、ということで、
今回の食事会が実現したのだ。




場所は父親の生まれ育った田舎町にある趣のある食事処。
お墓のあるお寺に近いこともあり、法事のときにいつも
利用しているところ。


私が最後にきたのは大学のときだったから、15年以上
ぶり?




(食事処を入ってすぐの部屋。
若き日のみっちーの写真がなんともいえない時代感。)


建物は古くても、掃除が行き届き、塵ひとつない。床もぴかぴかに磨き
あげられている。古いものを大事に使うってええな〜。


父親は張り切って、古い写真やアルバムを持参してきていた。



セピア色に染まる写真のオンパレードで、私たちも見た事のない若き日の
祖父や祖母が映っていた。

食事が始まってすぐにトイレに席をたち、戻ってくると、祖父の妹さんが大泣き
していてびっくり。久しぶりに兄弟の写真をみて感極まったらしい。

ゲストのお二人とも80超えているのだが、昔のことは鮮明に覚えていて、
祖父や曾祖父の人柄が伝わるいろんな話をしてくれた。特に旦那さんのほうは
元警察官で、頭はかなりシャープ。話がとてもわかりやすい。
感情豊かな奥さんと絶妙なコントラストをかもしだしていた。




(息つく暇もなく、マシンガントークするゲスト夫婦。
手前の薄くなってきた頭は私の父。)


いったん、口火をきると思い出話もつきなく、ここには
書ききれないような話が盛りだくさん。


(会食の全容風景)


しかし、私にとって特に印象深かったのは、
妹さんの旦那さん(K氏)の戦争体験談だった。
ちょうど、祖父の出兵したときの写真がでてきたときに、
話題が「大東亜戦争」(とK氏は呼んでいた)に及んだ。


ふと、「Kさんも出兵したんですか?」と尋ねると、
終戦した時期はちょうど16歳で出兵せずに済んだ、
と教えてくれた。
しかし、その後の人生はなかなかハードだったらしい。


中学校を卒業した彼は、教師を目指したいと思い、師範学校
(当時の教養学部)の進学相談を先生にすると、
「いまどき先生なんて必要ない。いまは日本が国として
どうなるかの瀬戸際なんだ。もっと他にやれることを
探せ。」といわれ、神奈川にある軍関連の兵器研究所で
働く。そこで終戦を迎え、実家のある宇都宮に戻ると
大空襲で実家が跡形もなく燃え尽きていた。幸い、家族は
無事だったが、住むところを求め、知人のところに身を寄せた。
ほどなくして、自治体が戦災者を対象にした仮住宅を50戸
用意。高い倍率の抽選を運良く当て、そこに住み込んだ。
しばらくプラプラしていたが、ビーカーやフラスコで実験する
ような技能が生かせる職もなく、しばらくはガラスの溶接工の
仕事をしたが、つまらなくなってきた。そんな折、警察官
募集の張り紙をみかけ、申し込む。無事、面接に受かって
そのまま警察官としての人生を30年余過ごしてきた。




「戦争の混乱って、やっぱりすごかったですか?」


「すごいなんてもんじゃねぇ。ありゃぁ、悲惨だね。
 悲惨そのもの。俺は戦争の犠牲者だって思ってる。
 家はなくなるは、やりたい仕事はできないは、
 とんでもねぇ〜目にあったよ。戦争なんて、
 何にもいいことないね。」


彼が”戦争の犠牲者だ”と言ったときは、怒りからくる
震えがこもっていた。戦争を味わった人にしかわからない
苦労と悲しみは語り尽くせないものなのだろう。


当時の写真を見てみると、土ぼこりにまみれた道ばたで
子供をあやしていたり、掘建て小屋にたむろしていたり、
まるで中国の田舎で撮られたような様子だ。


いみじくも、その後、大阪万博らしき会場や、ハワイ
で海外旅行をしている祖母の姿を収めた写真がでてきた。
今の中国人が辿る姿をそのまま写真にしたかのようだ。


今、まさに中国が入ろうとしている高度成長期を超えた
先に生きるわたしたち日本人は、彼らに「この道を進めば
幸せになれるよ」と胸を張っていえるだろうか。




その後、K氏の警官時代の話になった。


今でもよく覚えてるのは、警察官になって最初に行った
殺人現場のこと。お寺の夫婦とそこを訪れていた
知人の3人が包丁でメッタ刺しされ、現場は血の海。


「ちょうど暑い時期でね〜。魚屋の匂いとおんなじ、
 それかもっとひどい。むっとくる血の匂いは吐きそう
 になったね。」


このときの犯人は、結局、近所に住む男性で、金目当ての
強盗だった。その頃の殺人事件の犯人といえば、友人知人
で貧困からくる強盗や、怨恨が主だったという。


そう考えると、ここ最近の事件は、ずいぶんと様相が
変わってきたように思えてきた。同じ栃木県の足利市で
最近起きたのは、ある女性が「離婚しており、幸せな家庭が
妬ましかった」と立て続けに赤ちゃんの足をひねり、
骨を折ってしまった。その数日後には、マツダ工場の元従業員
が無差別に人をはねる事件が報道されたばかり。


これらの事件をあげ、事件性というのものは時代とともに
ずいぶんと変わるものですね、と言うと、


「確かに信じられない事件がほんとに多いね。
 事件というのは、そのときどきの人の心を現すもん
 なんだろうね。今は、秋葉原の事件のように、
 自分勝手な理由で無差別に人を殺す。そんなんじゃ、
 気をつけようにもしようがない。道を歩いてて、
 上からコンクリートが落ちてくるようなもんだ。
 そう考えると、今のほうが行きづらい世の中に
 なってるのかもしれないね。」


とK氏。


彼らの昔話によれば、祖父の敷地内にK氏夫婦が
住み込んだり、祖母の兄弟が住んだり、必要に応じて
共同生活を楽しんだ時期もあったそうだ。


じゃがいもがなくなれば、隣からもらったり、御飯時に
顔をみれば、「今日はうちで食ってけ」と食事をともに
することもよくあったという。


いまでいうほどプライバシーはなかったかもしれないが、
ゆるやかな絆でお互いつながっていた当時の雰囲気が
伝わってくる。


一方、今の時代、隣に住んでる人がなにをしてる人がすっかり
わかりづらくなってきている。私もいまの東京のエリアに
住んで5年目だが、つい最近、隣人のおばあさんの葬儀で
2件隣の人に初めて会ったばかり。お互い「会わないもん
ですね〜」と感心したもんだが、感心事ではないな。
いや、お隣のお葬式の呼ばれるだけ、まし?
むーん、もうなにがだんだが。。(苦笑)




なんにしろ、確実なことは、昔は自然にあった周囲との
コミュニケーションも、いまは意識してつくっていかなければ、
先にあげた無差別殺人のような事件は延々と起こり続けていくのだろう。

彼らは、ただ誰かに話をきいてもらいたかっただけなのかもしれない。
秋葉原の彼だって、日々の思いを携帯サイトに綴っていた。




誰も自分のつらさをわかってくれない。
つらいのは自分だけ。
他はうまくやっている。
なんでつらいのは自分だけなんだ。
許せない!


そんな彼らの声が聞こえてくるようだ。


しかし、一見うまくいっているような人たちも、よくよく聞けば
いろんな苦労があったりするものなのだ。
K氏夫婦も、今で言う「誤診」のせいで1歳数ヶ月の赤ん坊を
なくした話を涙ながらに聞かせてくれた。生きていれば50歳を
超えているというから、半世紀以上も前のことなのに、昨日の
ことのように内容は鮮明であり、いまのように医療ミスで裁判
を起こすような時代でもなく、彼らの思いはただただ無念、の一言
につきるようだった。


明るく陽気なゲスト夫婦も、他からみれば、子供も自立し、
公務員の年金で安定した暮らしをした幸せな人たちに見えるのかも
しれない。しかし、よくよく話せばいろんな苦労を味わってきている。


それを自然に共有し、理解しあえるコミュニケーションの場を
社会のなかにつくっていかなければ、いつ自分や自分の家族、
友人知人が無差別的な事件の被害者になるか、あるいは加害者になるか、
わからない。このブログのようなバーチャルスペースでは、
限界があることを秋葉の彼が体現している。
結局、人は顔をつきあわしてなんぼなのか。


仮にいまの自分の環境がよくても、他に孤立している
人たちが存在し、それになんらかの対処をしない限り、根本的な
ことは解決されないと思う。


なんだかシリアストークになってしまったが、事はそんなに難しい
ことでもないのかも。ただ、イスをいくつかひっぱりだして、気軽に
井戸端会議ができればいんだけどな〜




(こんなふうに・笑)







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